「できないものはない」。
そこに挑戦するから、三和メッキ工業なのだと思う。
1956年に創業を始めたとき、現在の三和メッキ工業は、田んぼのど真ん中にあった。河川を渡る橋も木造で作られたおもちゃのようなものであった。
付近は、見渡すかぎり田んぼと川があるのみで、自然と隣り合わせ。夏になると多くの蛍が飛び交う地域であった。
当時はまだ「メッキ」という技術自体が、「メッキが剥がれる」という言葉が存在するように、あくまでも「偽物」というレッテル が貼られていた技術であった。
福井県は、昔から「繊維」の町として栄えてきた。
当時、三和メッキ工業は、今でいう「孫請け」、つまり他のメッキ業者様からのお仕事をすることしか出来ない「家内企業」であった。
まだ小さい私を母は、「おんぶ紐」で背中に担いで、メッキ処理をしていたそうである。
私達の原点はそこから始まった。
孫請けからの「脱却」という目標のために、私達は、繊維産業向けのメッキ処理開発にチャレンジすることを決意した。
沢山の失敗を繰り返す。
そんなに簡単に出来ない技術であることを再認識した瞬間であった。
それでも私達は、社員とともに夢を語り合った。
地元の銀行との取引も厳しい中、新たな設備を導入し、繊維産業向けのメッキ技術を確立させたのである。当時、社員数5名。
自分で営業に回り、頂いたメッキ依頼品を処理し、そして検査納品までを弊社社長がひとりで行ったのである。
そんなある日、私たちが行っている「メッキ技術」が他の同業者よりも「高品質」であることをお客さまから知らされた。
最初のお取引をさせて頂いたお客さまのご紹介により、その「メッキ技術」は、繊維産業向け専用「ナシジ硬質クロムメッキ」として沢山のお客さまにご利用頂くようになっていた。
他社では、クリア出来なかった品質を、耐久性を、メッキ処理にて解決することができる証明でもあった。
福井県のもうひとつの産業として「眼鏡」がある。そこに特化したメッキ業者が、福井のメッキ業界を潤わしていた。
しかし、眼鏡に特化したメッキ技術では、他の産業に応用が利かない現実をその当時は誰も理解することができなかった。
そういう時代の中で私たちは「新たな分野へのメッキ技術開発」に着手始めた。
何故ならば、お客さまのニーズが多様化している高度経済成長期の幕開けでもあった。
他のメッキ同業者が「これは処理できない」と門前払いするメッキ処理を弊社は「できないものはない」と定義し、積極的にメッキ試作処理をチャレンジし続けたのである。
メッキ技術は日本古来の技術である。しかし、お客さまのニーズ、経済成長、いろんな要素を含め、 メッキ業者は変わらなければならない、と私は思う。
いま私たちが手がけるメッキ処理の種類は100種類を超えた。「できないものはない」この精神を貫き、新たなメッキ技術をお客さまを通じて経験させて頂いた。
これからは、そのご恩返しを私たちが日本にする番だ。
まだまだ「できないものはない」、この原点を忘れずに三和メッキ工業は進行中である。